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全日本戸山流居合道
全日本戸山流居合道の由来
戸山流は居合か抜刀か
剣道・居合/抜刀について
守破離について
全日本戸山流居合道の由来
明治6年に現在の東京都新宿区に陸軍戸山学校が創設されたのが、戸山流の始まりと言われている。目的は射撃・体操・剣術・攻守戦法などを習得させ、一般軍隊の指導者を育成することであった。陸軍は国井善弥道之と相談して各流派の指導者を招き、指導を中山博道に依頼し、古流の優れた技を選び出し正座刀法を立技に直し組み立てた。これが戸山学校片手軍刀操作術型である。終戦と共に戸山学校もなくなり、進駐軍により武道が禁止されたが、昭和26年の主権回復により再び武道が復活した。戸山学校校長であった鵜沢尚信(元中将)先生、山口(元中将)先生、戸山学校教官であった中村泰三郎先生などが戸山流を名乗るようになり、北海道・関東・関西・九州と大きく分けて4ヶ所で活動している。関東は中村先生が早くから名乗りをあげ、戸山流居合道抜刀術新興連盟、戸山流居合道連盟を経て現在に至っている。
戸山流は居合か抜刀か
一部の人々は、居合は物を斬らず型だけであり、物を斬るのは抜刀であると思っている。しかし、抜刀も居合も同じではないだろうか。抜刀にも型は存在するし、型の練習もしている。又、居合の方も試斬をする流派が少しずつではあるが増えているようである。先日ある人に「御流派は?」と問われたので、「戸山流です」と答えたところ、抜刀ですねといわれた。世間では戸山流は居合ではなく抜刀で通っているようである。しかし、戸山流は全日本戸山流居合道連盟と位置付けているし、物を斬る、斬らないが抜刀と居合の違いだというならば、段々と抜刀と居合の違いというものは無くなってきている。居合の定義は正座刀法とはなっておらず、奥居合は立技も入っているのでその様な決め方も無いようである。抜刀も居合も、武道の原点である「敵と立ち会ったときに勝利する」ということが目的で、また究極の目的刀を抜かずして勝つことにある。呼び名は抜刀でも居合でも同じ事であると思う
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剣道・居合/抜刀について
明治以前の旧幕時代には、剣道というものはなく、剣術または撃剣と言われていた。戊辰の役・西南の役では銃による戦いが刀を寄せ付けず、剣術はもう戦いには役に立たないものとされ、刀による戦いはもう無いだろうと言われた。その為、剣術を習う者は無くなり、剣術自体が消滅しようとした時に、それを憂い、後世に残すべく心血を注いだ剣術家達がいた。その中の代表者に山岡鉄舟・根岸信五郎内藤高治がいる。剣術を青少年の指導育成にと、剣術修行を通じて精神の鍛錬をさせ、人生の修行の道として剣道と名付けられたのである。敵と戦うときに、どんな手を用いても勝つという態度を改め、勝ち負けは二の次にして百万石の殿様のように気品ある正々堂々とした技を目標にした。それが剣道である。江戸時代に学んだ剣術というものは、今でいう剣道・居合/抜刀すべてを総括した名前であった。竹刀での打ち合いから、技の仕掛け・応じ方を学んだ。しかし、それだけでは刀を持った時に刃筋の立て方刀の納め方等は学ぶ事が出来ないため、居合/抜刀術を通じて、刀の取り扱いを学び、物を斬る時には刃筋が非常に重要なので、物を斬りながら刃筋の立て方も学んだのである。当時は、剣道・居合/抜刀の両方を学んで初めて剣術家と言われたのである。
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守破離について
『守・破・離』とは武道を始めて一番最初に触れる言葉だと思う。まず『守』とは、師や流派の型・技などを忠実に守り、それから外れることの無いように、その教えを堅く守って身に付ける事である。次に『破』とは、今まで学んで身に付けた型・技が確実に身に付き、さらに修行を積み他流の師の教えをも心に留め、他の良い技を取り入れてゆく。そして自己の守ってきた型・技を破って、心と技を発展させてゆく事である。最後に『離』とは、破をさらに修行してゆくうちに、守にとらわれず破を意識せず、一つの型・流派を離れて新境地を開いて、独自の新しいものを生み出してゆくことである。最後の『離』を目標として修行を始めよ言うのが『守破離』の教えである。最近は守が短くて破・離までが2〜3年で終わっている人が多いようである。しかし、他人から見ると、まだ守の修行が十分でない人間が多い。剣道のように相手があれば、自分の技がどの位のレベルにあるのか身をもって知る事が出来るのだが、居合の型の場合は、自分で上手であると思ってしまう場合が多く、手が付けられない。下手な歌と一緒で、客観的に見るとひどいものであるが、自分で上手いと思ってしまうと他人の声には耳を貸さず、その人は見る目が無いからそう思うだけで自分は上手である。などと嘯いてしまう始末である。最近は当流派だけでなく、武道全体でそういう人が増えているようだ。居合は型だけで終わってしまうという誤った考え方をする人には落とし穴がある。心して修行に励まなければならないと思う。
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