刀に関する専門知識 |
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刀の名称 |
刀には各部位に名称があります。簡単に図式化しましたので、ご参考になさって下さい。 |
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刀の主な刃文 |
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刃文は刃を丈夫にするための焼入れの技術によって生じる模様で、刃の部分と地の部分の硬度の差によって生じます。主な刃文を図示しましたので参考になさってみて下さい |
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刀と太刀の違い |
私たちがテレビの時代劇などでよく目にする刀は、刃の方を上向きに帯に差していますが、これは『打ち刀』といい室町中期以降から江戸期のものです。普通、刀と言うとこちらを指します。
それ以前、鎌倉時代までは刃を下向きに腰にさげていました。これは当時の武士の戦闘が主に馬上戦であったためと思われます。この様に刃を下向きに腰に下げるものを『太刀』と言います。ちなみに、腰につける事をはい「はく」と言い、この事から太刀のことを『みはかし』とも言います。下記に画像を示しますので違いをご確認下さい。 |
■ 刀 |
■ 太刀 |
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御刀の手入れ |
刀剣の手入れは、専用の道具で簡単に行えます。1〜2ヶ月に一度定期的に行う事をお勧めします |
手入れの順序と方法 |
順序 |
手入れ方法 |
注意点 |
1 |
鞘を払う。(抜くことを払うと言います。) |
鞘から刀を抜く時は必ず刃を上にして抜きます。横等に向けて抜くと刀身に引き傷が付く事があります。
※これは全ての刀を扱う時のお作法です。刀を鑑賞する時には必ず守りましょう。 |
2 |
抜いた刀を左手で持ち、新しいティシュペーパーで棟の方(刃が付いていない方)から切先方向に着いている油を拭き取る。
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この時完全に古い油を拭き取っておく。不完全で打ち粉に進むと傷になる事があります。
お手入れ道具に付いている拭い紙(和紙)は使用法が難しいので使わない方が良いと思われます。 |
3 |
打ち粉で刀身全体を軽くポンポンと打ち、新しいティシュペーパーでその白い粉を拭う。これを数回行い油のくもりを完全に取る。
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これも切先方向へ行います。刀身のお手入れは全てがこの方向です。反対に行うと怪我をする恐れがあります。 |
4 |
ここで刀を鑑賞する。 |
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5 |
鑑賞が終わったら新しい刀剣油を刀身に塗る。
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ネル、フェルト等の柔らかい布に刀身油を数滴付け、薄く膜を作る程度切先方向へ全体に塗る。
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通常は10に進み終わりますが2〜3回に一度は、この時茎(刀の柄に入っている所)とハバキ下の手入れも行う。
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6 |
目釘抜きで目釘を抜き柄を外す。 |
目釘を抜いた刀を切先を上に左手に持ち、右手で左手の柄元を下方向に叩くと抜けやすくなる。
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7 |
茎を抜き、ハバキも取り外す。 |
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8 |
茎は乾いた布で拭う |
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9 |
ハバキ下はハバキを取り外し、打ち粉のカス等の汚れを茎方向に落とし、刀身同様に油を塗っておく。 |
ハバキ下だけは刀身と逆方向にお手入れします。刀身に向けてお手入れすると、ゴミ等が刀身を傷つける恐れがあるので要注意です。
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10 |
ハバキ、柄等を元に戻し鞘に納める。 |
この時も刃を上にし、注意深く行います。 |
注1 |
刀身には絶対に素手で触れない。(錆びの元になります。)万一触れた場合は手入れをして下さい。 |
注2 |
拵え付の場合でハバキを外す時は切羽、鍔等の入っていた方向、順序を忘れない様注意する。 |
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刀の値段と貨幣価値「昔、刀っていくらしたの?」 |
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明治初年、オーストラリアのウィーンで英国博覧会が開かれた際、我国も国威を示す意味で参加する事になり、日本刀三振を出品する事になった。栗原信彦・石堂是一・固山宗次の三人の作が選ばれた。その中で、栗原信彦が明治政府に提出した費用見積書が残っているので参考にしてみたい。(現代価格換算は米価に拠り 1両=約8万円) |
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内容 |
当時貨幣 |
円に換算 |
解説 |
1 |
鋼代 |
3両 |
約24万円 |
影打分を入れていると思いますので、二振分の値が付いているのかも知れません。 |
2 |
炭50俵 |
6両1分 |
約50万円 |
炭1俵、現在の価格
2,370円×50俵=118,500円となり、明治初年の炭代は1俵10,000円ですから、昔と比べると炭は大変安くなっています。 |
3 |
相鎚雇い手間料 |
12両と銀5匁 |
約96万円 |
職人の手間代は現在と殆ど同じと言う事に驚きます。相鎚代は向こう鎚二人分、そして自分の手間代も入れて96万円。これも単純に三人で割ると32万円ですが、信秀が50万円取り、向こう鎚が一人23万円と見るのが正しいかも知れません。 |
4 |
仕上げ料 |
1両2分と銀1匁 |
約12万円 |
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5 |
研ぎ代 |
5両 |
約40万円 |
現在の研ぎ代は現代刀の打ちおろしで30〜40万円と同じです。 |
6 |
白鞘 |
3分 |
約 6万円 |
鞘代も現在5〜6万と同じです。 |
7 |
彫代(切物工手間代) |
10両 |
約80万円 |
現在と同じか、むしろ安い様です。 |
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合計 |
38両3分 |
約310万円 |
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※ 鋼代とは刀の原材料にあたる玉鋼(たまはがね)の代金の事 |
※ 相鎚雇い手間料とは、刀の折り返し鍛錬の時など、鉄を打ち伸ばしていく時に、刀匠の鎚と交互に鉄を打つ人の手間料の事。 |
※ 影打ちとは、良いものを納める為に、同じ物を二振り造り、その一方を納める。その際の納められなかった刀の事 |
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石堂是一は 31両 = 約310万円
固山宗次は 27両 = 約216万円 |
石堂是一は現在購入すると約4〜500万円。固山宗次もやはり約4〜500万円するので当時の倍位になっているようです。 |
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次に当時のエピソードから人々の刀への思い入れを推測する |
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◆江戸の初期、田宮流の居合の開祖、田宮平兵衛重正は元和五年に肥前の忠吉に刀を注文する。 忠吉は代金100貫を要求する。両に直すと25両(1両は4貫)。※1貫とは一文銭1000枚をさす。円に換算すると200万円になる。 平兵衛はそのお金が無い為に池田家を辞め、2、3回仕官し、最後に一番高禄をくれる尾張徳川家に仕えた。注文してから実に4年の歳月が過ぎ、やっとの思いで刀を受け取りました。当時の剣客の刀に対する思い入れが伝わってきます。 |
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◆砲斬兼光
上杉謙信が川中島の合戦で、武田方の輪形月平太を鉄砲ごと斬り捨てたという備前兼光を鉄砲斬兼光という。その刀は後に上杉景勝が秀吉に献上し、大阪城落城の時、行方不明になる。家康も愛刀家なので懸賞金を3000両掛けるも不明。現在のお金で、2億4千万円です。現在も国宝となっている物で3億円位で、重要美術品は2000万円〜3000万円位ですので同様です。 |
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◆秀吉は慶長三年八月初旬、死期を悟り五奉行を病床の枕元に呼び寄せ、遺児秀頼の将来を頼む事と、形見分けをする為に刀箱を7箱持ってこさせ、1つ箱を開け(31振入っていた)前田利家、徳川家康、石田三成、加藤清正、上杉景勝に分け与えた。7箱で計171振あり、その中でも有名な現在では国宝に指定されている「一期一振吉光」「朝倉長光」「小鍛治宗延」「義元左文字」「鉄砲斬兼光」「実休光忠」が入っている。
前田利家には大典太光忠(現国宝)脇差に1尺8寸9分の三条宗近。家康には備前三郎国宗(現国宝)脇差に宗光、勝光の合作。等々、形見分けに出た刀の総数は82振、36万5000両。現在に直すと292億円の値である。 |
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鎧通し |
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「鎧通し」は短刀の一種で戦場に於いて敵と組み討ちになった場合、敵の鎧を刺し通す目的で作られた物である。その為、平造で身巾を細くし、折れない様に重ねを厚くしてある。(1センチ位)したがって刀身の断面は菱形に近く、斬る事より刺す事に重きを置いている。
佩用の仕方は右の背中側に差し、左手で敵に組み付いたり押さえつけておいて右手を背中側に回し片手で抜き敵を刺すのである。これを馬手差(めてざし)という。因に白土三平の「カムイ外伝」でカムイが脇差しを差していた差し方である。 |
鎧通し断面図 |
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鵐目、人止 ひとどめについて |
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栗型や縁の穴に付ける金具の事をいいますが、昔は、あて字が普通で鵐の目みたいと云うので鵐目と云っている。鵐は古語で今は頬白(ほおじろ)と云っている。 |
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